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日記 閑話休題 お昼

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お昼の話。

お昼といえば、もう本当に今でも忘れられない。
会社勤めをしていた頃、お昼に、年上の上司はいつも買ってきたお弁当を右に、お味噌汁を左に置いた。

口すっぱく、お椀は右、ご飯は左、反対は死人よ、と、
言われてきた身にとって、それは、死のご飯に相当した。

若い私は理解できなかった。「なぜ左に置くのですか?」と、
あえて相手のマナーについて疑問を持っている事は伏せて
その行為の意味を問う事をしてみた事がある。

「え?だって、食べやすいじゃん。右で箸持つし。カップ左の方が手に取りやすいし食べやすいもん」

「そうですね」

それ以上何も言えなかったのをよく覚えている。
「マナー違反では?」とか「親に教えてもらわなかったの?」とか、
まだまだ若い私は偉そうな事を思っていたのに、
彼自身はそれを全く「知らない」から、「この位置に何の意味も無い、そもそも、効率がいい方で」という、
シンプルな思考だった。

それを聞いて、「私にとって非常に重要なこと」が、
他人にとっては、疑問すらなく、「何にも意味しない事」を考えさせられるきっかけになった。


彼は、外に食べに行っても、正しく並べられたものを逆にした。
私は彼の理由を知っているからいい。
だけれど、本当に余計なお世話で、他の誰かが見たら、
人によっては、マナー違反というのは、相手を見下すような要因になる事もあるだろう。
せめて、外では、お椀は右の方が、生きやすい。
でも、退社するまで、一度も彼に、「お椀は右の方が」とは、私は言わなかった。


私は今でも、お椀は右に置くし、ご飯は左に置く。
これが、単なる「外側の思考」である事も、重々理解しながら、
やはり子供にも、一応の日本人「大多数」のマナーとして、そう教えてみている。

大多数。本当にやっかいだ。
ある程度のルールを逸脱すると暮らしにくいこの日本で、
ある程度の基本は教えておかないと、という、
結局、また日本人らしい馬鹿馬鹿しい私の思考による。
給食も確か、お椀は右で、ご飯等は左だったように記憶している。
ルールを逸脱し、別にいいじゃん、で中々過ごせないのも学校。

子供が通った保育園では、先生のご意向で、お茶のお稽古もして下さって、
そうした、伝統的な文化や、「型」に触れさせていただく機会があった。
決められた動作、それは、子供の意思で行っているわけではない。
でも、それはそれで芸術的で美しい。

型か、マナーにはまれば自由を忘れ、
自由に生きている人を見ると、型にはまっていた自分に気付く。

私にとって、とても象徴的な人だった。

子供の頃から植えつけられた思考とは、
それほど、当たり前で、何も疑問を抱かないし、
新しい思考を知ったとしても、変えたいとも思わない。


全く詳しくは無いが、仏教と寺と、地域は、非常に深くコミュニティを築いていたからこそ、
寺のマナーは、人のマナーになったのだと思うし、
なくなった人の側から見て、お椀を右、ご飯を左に置くと、逆さまになる、
という事はよく理解している。


しかも、クリスチャンだったら、お正月に意味が無いのと同様、お椀の位置に何にも意味は無い。
誰もが、宗教、文化、生きてきた歴史、が、違うという事について、
若い私は、それはそれでいいのだと受け入れる必要がある事も、そんなお椀の位置から学んだ。


私にとっての一つの正しさは、他人にとって、何も意味が無い。
逆に、他人にとっての強い正しさは、私にとって何も意味がない事であると思ってもよいと許可している。
今でも、出来る限りそう肝に銘じるようにしている。だからこそ、誰もが自由を得ることが出来る。
お互いはお互いそれでいい、だからこそ、深くお互いを理解し合えると信じているのです。
そして、私が言う事は、誰かにとってとても重要で、誰かにとっては全く意味が無いのです。



でも。そもそも!!そもそも!!!!
命に変わる命を分けてくださった美味しいお食事が先で、お椀の位置に、本来意味は無いもの。
感謝して、美味しく頂ければどんな形でもいいはず。



これは、人の思考パターンとは、ルールとは何かを思うときに、一番最初に思う私の中の例です。



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